やわらかいこころ
今回会津に帰った3日間は
ほんとにいろいろなことが起こった。
中でも一番衝撃だったのは
「あたしはあたしが思ってるような人じゃないかもしれない」ということ。
私にとって実家は、
ずっと「友達によく誉められる」「人が良く集まる」「笑いが絶えない」「家族みんな仲がいい」自慢の家族だった。
実家はなんでも喜んで、よく笑う家で
リアクションも大げさで、
いかに人を笑わすかって競争してるみたいな家。
実際に仲良いし、笑いも絶えないんだけど
そうやって『なんでも笑って、仲良くて、エネルギーがポジティブ』なのが最上みたいな空気というか
カラー?不文律(っていうと強いけど)みたいな
そういうのがあったのかも。
なんとなく家族全員がそこを目指しちゃう、みたいな。
お父さんは笑い上戸だし、マイペースな人だから割りと自然体だけど
お母さんはもともと頑張りすぎちゃうところがあって、
今までどん底なこといろいろを乗り越えてきたから
(そしてお母さん自身のエネルギーも良くも悪くも強いから)
そういう『リアクション大きく、いつも楽しく、なんでも笑ってポジティブに』みたいなのは強くて
私もそういうのが無条件で『良いこと』だって思ってたし、そっちに寄せていってた。(自分の性格とか好みとか、言動も)
でもこの間『静けさ』の心地好さを知って、
自分はもっと静かな方が好きなのかもしれないと思った。
自分の性格っていうかキャラは
周りを盛り上げるのが好きで、賑やかなのが好きで、おっちょこちょいなところがあってって思ってたけど
ほんとは、静かな方が好きで、ゆったりしてるのが好きで、落ち着いてる人なのかもしれない。
家は何してもほんとに反応も声も大きいけど(リアクション芸人みたい)、
私はもっと落ち着いて静かにしてたい。
別に家を否定する訳じゃなくて
(リアクション薄くても)ちゃんと聞いてるし、
否定してる訳じゃない。
ただもう少し落ち着いて静かにしていたくて、
反応が薄いからって心配そうに覗き込まれるのは
なんか違う。
っていうようなことをお母さんに話したら
「そっか……」って言われて
たぶんお母さんのことを傷つけた。
それでも、あたしからお母さんを引っ剥がす為には
しょうがない痛み、必要な痛みなんだ。
お母さんに対してはっきりした反抗期もなくて
(無意識で)お母さんの理想に沿うように生きてきた気がする。
でもこれからは
私からお母さんを引っ剥がして、
私達は違う人間なんだって示して、
道が別れることもあるって伝えて、
私が生きたいように生きたい。
こころの一番奥の、やわらかいところを開いて生きたい。
自分を出して生きたい。
出せる「自分」を見つけていきたい。
お母さんの良いと思うことを良いと思うような私じゃなく、
いい子ちゃんな私じゃなく。
私が一番、私を大事にしてあげれるように。